奥宮の御案内

奥宮について

奥宮について

本神社の奥宮は、木曽川左岸の愛知県一宮市奥町河川敷内の松林で、通称「大巻山(おおまきやま)」と呼ばれている猿尾(さろう)の中ほどに鎮座しています。この奥宮は旧奥町渡船場の南側にあり、この大巻山の川下先端部分で神宮御遷宮のとき、御用材の筏が伊勢湾に入るために縄を締め直す御神領地です。この地に昔より「猿田彦大神」「天宇受売大神」の二柱が祀られており、現在は本神社の「奥宮」となっています。

奥宮について
奥宮について

奥宮の鎮座する大巻山は、旧渡船場の南に位置する神領地で、神宮御遷宮の際、筏の御用材が伊勢湾に入る前に綱を締め直す場所でした。伊勢湾に出た後もご用材が無事届くようにと、導きの大神である猿田彦大神が祀られ、宿は氏神の若宮神明社があたりました。この神縁により、今では「鳥居・標」が設けられ伊勢神宮の遥拝所として多くの人に参拝されています。

奥宮について
奥宮について

昭和28年第59回式年遷宮の際に神宮第三の鳥居が西奥町の氏神に御神縁も深く授けられ、この大巻山に神宮遥拝所鳥居として南向きに建立されました。この付近は公園で散歩コースにもなっており、双方共に親しく参拝されています。本神社の本殿は奥宮の東、堤防を挟んで五百メートル程離れた奥町の街中に、御神徳を広めんとご神託により御造営されて現在にいたっております。

奥宮の修繕

式年遷宮を始め、物流、渡船と河川は生活において欠く事のできぬものでした。木曽の恵みに感謝をし、導きの神である猿田彦大神は、地域の守り神として祀られました。しかし現在は堤防の拡幅により、一般住宅は取り除かれましたが、お社のみは木曽の恵み、治水のために残されました。

奥宮渡船の文章より1716年には守り神として祀られていたことが確認されていますが、それ以前は書面では確認できず1608年に木曽川が現在の形になり、その際に祀られた御社であると言われております。

かつての奥宮(昭和30年時代)

下は現在のようなコンクリートや生成された石ではなく、大きな岩の上にお社が祀られておりました。

かつての奥宮
かつての奥宮
かつての奥宮

近年の奥宮(昭和60年頃)

昭和に尾張猿田彦神社を里宮として建立する際に奥宮を一緒に整備いたしました。奥宮の猿田彦大神の由緒がわからず、その際に伊勢の猿田彦神社より正式に御霊分けを行いご鎮座いたしました。
また、奥宮の敷地内に氏神である若宮神明社が伊勢の第三鳥居であった神宮遥拝鳥居を建立。

近年の奥宮
近年の奥宮
近年の奥宮

現在の奥宮

奥宮の神域に堤防上からでも神社がわかるように大鳥居を建立。奥宮への車での参拝を可能にするため、一宮市の公園緑地課と協議のうえ、一部土地を市に貸し、緑地公園をはじめ、公園利用者、奥宮参拝者用の駐車場として整備してあります。

現在の奥宮
現在の奥宮
現在の奥宮

奥宮周辺の今昔

木曽川と大巻山

『大巻山』は、木曽川の左岸の奥町地内にあり、現在の木曽川が「尾起(おこし)川」と呼ばれ80メートルほどの川幅であったものが、天正14年旧暦6月24日(1586年8月9日)の大洪水の際、一晩で現在の川幅(奥町で700メートル以上)が10倍以上の大河となりました、切れ所は108ヵ所ありました。

それ以前は尾張に7筋の川があったと文献が残っております。現在も濃尾大橋の北左岸の川中に尾起川の堤防跡が見えます。

尾起川以西を天正12年美濃に国替えし大洪水で濃尾の境としました。以後何度も大洪水が起こり甚大な被害が繰り返された為、奥町の北と南に「萬度社」(1591年頃?)を設けて切れ所の流れを弱め、変える役目をする猿尾(さろう)を石と土砂で山の様に作りました。その長さが百閒(180メートル)あるところから「百閒猿尾」といわれるようになったそうです。

『大巻山』の所以は、山の様に突き出た風景の南側(川下)で常に大きな渦を巻いて流れていた風景から称されたそうです。お囲い堤の完成は慶長14年(1608)その頃から木曽川を挟んだ尾張と美濃の風景が大きく変りました。

奥宮の昨今

今は昔、交通機関も無く、往来を船に頼っていた頃、この地域は木曽川の流水によ って発展して来ました。この地の織物や物品を、浪速・名古屋方面へ運び出す人々また出入りする船や笠松港(羽島郡笠松町)まで上り下りする船、奥町と羽島市をつなぐ「奥町渡船」、また周囲の人々も生活の一部として利用していたようです。

昭和30年代の夏季にはボートやヨットを浮かべ、「川の家」が催され金魚の放流などもあり賑わい、生活の一部と遊行の場となっていました。また時には、伊吹山山脈や周囲の景色を眺めながら、川風が川辺の松にあたる爽やかな音を聞き、小舟を浮かべて酒などを酌み交わし優雅に遊ぶ姿も見られたようで、その当時の歌詩(奥町誌)が残っております。

  • 「旅ころも きその川辺に 宿りして 涼しき瀬々の 月を見るかな」本居宣長
  • 「あずま路や 尾張の国は山遠の 田どころ広し 千町八千町」本居宣長
  • 「暮渡二午越水一 鴻雁悲二数声一正觸二離郷意 既傷二遊子情一行々且麗望雨晴尾州域」細井平洲
  • 「大かたに仕えまつらん 八束穂に 秋の穂たは 栄たるかも」田中道麿
  • 「筏上に とれば遠山も 秋の月」暁台

昭和40年の後半頃までは、堤防まで良く見え、湿った砂場にシジミが、川面に小魚の姿がよく見え、人々がサラサラと流れる水辺で遊ぶ姿がよく見られましたが、今は川の中まで木が茂り川辺まで行くのが困難で、水も汚れて対岸も見通せない状況となっています。

また今は、交通機関の発達や諸事情により、笠松港への往来も川下の馬飼大橋のダムにより無くなりました。また奥町渡船も無くなり、今は当時の面影を見る事も出来なくなりました。

映画撮影地としての奥宮

赤木圭一郎主役、拳銃無頼帳「明日なき男」撮影地

一宮市奥町堤下の大巻山猿尾(さろう)と二ツ屋・猿尾が見渡せる場所が撮影現場となっています。

撮影現場になった昭和35年当時の風景は、木曽川護岸工事が綺麗に終わった後で、周囲には松林があり、採土船(サンド船)で川底の砂を汲み上げて、砂を積んだトロッコを運搬船に乗せて川岸に運び、敷かれたレールの上をトロッコがダンプカーの上に乗り上げて、直接積み込む場所でした。

撮影は、この採集現場へ2台の自動車で乗り込んでアクションを行うシーンです。乗り込むシーンの中で、当時の大巻山猿尾の先端(南の端)から万度社(まんどしゃ)の大松と当時の凸凹の堤防の風景が映っています。また、アクションシーンに、奥町に多くあった染色工場の大きな煙突と煙が映っています。その後、昭和40年以後に松の木が伐採され、護岸工事の上に流れてきた土砂が積り、その上にネコヤナギや竹雑草類が茂り、一変して当時の風景は見ることが難しい状況です。木曽川左岸の撮影現場は、この他に一宮市(旧尾西市)冨田山の松林、濃尾大橋東の下、用水端があります。

映画撮影地としての奥宮
映画撮影地としての奥宮
映画撮影地としての奥宮
映画撮影地としての奥宮
映画撮影地としての奥宮
映画撮影地としての奥宮
映画撮影地としての奥宮

奥宮渡船

「奥町渡船」は、愛知県一宮市奥町(旧奥村)若宮神明社の西側左岸と岐阜羽島市正 木村の右岸をつなぐ渡船で、この両岸の地は古くから絹織物が盛んで尾州織物・美濃縞の一大生産地で、交通の手段として渡船の必要性が高かったと思われ「奥村の渡し」は享保(1716)年間にはあったようです。

奥宮渡船
奥宮渡船
奥宮渡船
奥宮渡船
奥宮渡船
奥宮渡船

現存する書類によれば「持ち株」制で、明治44年(1911)3月の渡船事業権利は奥村だけが持ち、持株四株の岩田銀之助が営業管理にあたり、二株を大橋と野々垣が、残りを今枝・尾関・大橋・高御堂・市川・栗田・大橋の7人で所有した株主組織でした。それ以前の書類として明治18年と20年の約定書や証券、大正時代の金銭出納簿等が現存しています。

右岸に接岸する道路が無く正木村光法寺柳原の私有地(岩田、今枝、尾関、野々垣が所有)を道路まで使用し、奥町の県道(現在木曽川緑地公園)とを結ぶ渡船でした。当時で、客は1日平均200人程で渡し賃が一人3銭で有った。船は30人乗り位の小舟で櫓や帆によって運行し約30分程度で対岸に着きました。

昭和25年頃までは往来も多く賑わったようですが30年代に入り交通機関や自動車の発達により利用する人は激減、収益も上がらず株主も減り協力・援助・補助も無く最後は岩田銀之助の一軒が日に何人か渡る人のために止めることが出来ず運営していました。

羽島市正木町と一宮市玉井高畑を結ぶ尾濃大橋が出来た昭和57年2月に、建設省が正木村の私有地(現河川敷)を買い上げ廃止となりました。不思議なことに、橋の渡り初めには奥町渡船の関係者が誰も参加していませんでした。

当時を偲ぶものとして、奥町・渡船場跡の碑と、昭和3年11月に建てられた奥町駅前の北西角にある渡船場への「道しるべ」の碑二つが残っております。

木曽川奥町八景

木曽川奥町八景

1. 川原の秋月

初夏から晩秋にかけて、白砂の上を月夜に散歩する趣

2. 堤防の青嵐

渡船場から川下に当る林中、涼風来る所木の間がくれに白帆の上下する旅

3. 渡船場の扇帆

夕陽、まさに河畔に迫る時、白帆の夕凪にゆるく下る旅

4. 了泉寺の晩鐘

渡船せんとして艫(ろ)の音やんだ所に、了泉寺の晩鐘静かに響く様

5. 伊吹の暮雪

白雪累々たる伊吹を渡船中に見る、渡船場上草原の堤防上から見た伊吹山

6. 西猿尾の落雁

渡船場西の猿尾に立って川下を見る時、多度方面をさして美濃路を落ち行く雁

7. 堤防の夜雨

了泉寺裏堤防に秋雨のしとしとと降りかかる雨珠に堤防の大松のあたり

8. 奥町の祭橋

東より(若宮神明社)神社に正面してみた景

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